地域情報「大森貝塚」
- 2015.10.07
|地域貢献
企業において、社会的な責任(CSR:Corporate Social Responsibility)を果たすことは義務です。
加えて、より社会における存在意義を高めることが企業に求められています。
ベンカンにおいても、社会的な責任を果たすことは当然として、社会に認めていただけるような存在意義を示すための取り組みを推進しております。
まず、言えることは、事業を通しての社会貢献です。
ベンカンあるいは、ベンカン製品が社会に貢献できる存在となること、逆に存在しなければ社会として困るような企業あるいは製品づくりに取り組みます。
また、SDGs(持続可能な開発目標)の様な活動を通して、事業以外での貢献も検討しております。
実力以上の高みを目指すのではなく、大切なのは出来ることから取り組むことだと考えております。
身近なところでは、地域貢献です。
今回は、ベンカンの発祥の地でもある東京都大田区の情報をお届けします。
|大森の地
大森は、1947年にベンカンの前身である日本弁管工業株式会社が創業した原点の地です。
現在は、本社を群馬県太田市に移しましたが、執行本部と営業所は、JR大森駅前に所在しております。
大森は東京都大田区の北東部に位置し、JR京浜東北線の大森駅を中心とした街です。
住所的には品川区南大井に京急線の大森海岸駅がある様に、多少、曖昧な線引きとなっています。
その大森海岸駅ですが、実は、周囲に海岸がありません。
大森ですが、以前は、東京湾に臨み、古くから農業と海苔養殖を中心とした漁業の盛んな地域だったとされています。
しかし、東京湾の埋め立て工事によって、海岸はなくなり、現在は、平和の森公園の「大森 海苔のふるさと館」と大森ふるさとの浜辺公園で、歴史と面影を振り返ることができるくらいです。
尚、雑学としては、浅草から移住してきた人たちが大森で海苔を養殖していた関係で、大森で採れた海苔は、「浅草のり」として全国的に有名でした。
大正時代以降は、漁業の衰退と共に京浜工業地帯の一部として発展しました。
ベンカンの初期の工場もこの地域にありました。
その後、ベンカンも群馬に移転したのと同様に多くの工場は移転し、主に住宅地や商業地が中心の街となっています。
|日本考古学発祥の地
JR大森駅のホームには「日本考古学発祥の地」と記された碑があります。
ここ大森には、学校の授業でもならった国指定史跡の「大森貝塚」があるのです。
アメリカのエドワード・シルヴェスター・モース博士は、明治10年(1877年)6月に横浜から新橋へ向う汽車の車窓から大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを発見します。
その後、政府の許可を得て、何度かの事前調査を経て、10月9日から本格的な発掘を行っています。
発掘では、土器、石器、骨器、人骨、獣骨など多数の資料が発見され、その成果は、「SHELL MOUNDS OF OMORI」として刊行されています。
この発掘は、日本の考古学、人類学などの発展に大きく貢献したと共に、日本の先史文化を海外にも広めることにもなりました。
|大森貝塚
大森貝塚ですが、JR大森駅北口から池上通りに出て、200mほど進むと右手に「国指定史跡 大森貝塚」があります。
ビルの狭間の階段を降りて行くと、「大森貝墟」の石碑とモース博士ゆかりの地のレリーフがあります。
さらに、池上通りを品川側に300mほど進むと右手に「品川区立 大森貝塚遺跡庭園」があります。
縄文時代をイメージした、こちらの公園には、発掘調査した時に、実際に貝塚が発見された地点である「貝塚跡」、「大森貝塚」の石碑、実際の貝層を利用して、発見当時の貝塚を復元した「貝塚展示ブース」、「モース博士の胸像」などが展示されております。
また、ここから更に300mほど進むと右手に「品川歴史館」がありますが、ここでも大森貝塚に関する展示を見ることができます。
ところで、なぜ、大森貝塚に関する石碑が2箇所にあるのかです。
実は、モース博士が論文に発掘場所の詳細を書かなかったことと、貝塚発見の報告文書に所在地が大森村と記述されたことから、発掘地点について長い間、品川区説と大田区説の2つが存在したからなのだそうです。
しかし、その後、1984年(昭和59年)までの複数の調査により、現在ではモース博士が調査したのは品川区側であったことが判明しています。
正直、見て感動する名所というよりは、ここが歴史の起点であったことを感じる名所であると思います。
是非、機会があれば、お立ち寄りください。
我妻 武彦(Takehiko Wagatsuma) 代表取締役社長